いつかは実家に帰るつもりでいらしたものの、想定より早い時期となったため、ご予算の関係で一度に全てを改修することはできない状況でした。そこで自分達と共に少しずつ、しかし着実に進めてもらえる建築家を探す必要がありました。 そのような条件のもと、自分達に合う建築家を探すためOZONE家designにご相談にいらっしゃいました。
2011年(平成23年)3月11日に起きた東日本大震災。宮城県仙台市でも多くの住宅が津波に流されてしまいましたが、その中で柱が傾きながらも残った古民家(農家住宅)がありました。S様のご実家です。
この震災を契機に、東京で暮らしていたご夫婦は実家の復興のため地元に帰ることを決意。安全な高台に移住するのではなく、先祖代々守り続けた低地に位置する実家を復興させてこれからも長く住み継ぐという重い決断をされます。
いつかは実家に帰るつもりでいらしたものの、想定より早い時期となったため、ご予算の関係で一度に全てを改修することはできない状況でした。そこで自分達と共に少しずつ、しかし着実に進めてもらえる建築家を探す必要がありました。 そのような条件のもと、自分達に合う建築家を探すためOZONE家designにご相談にいらっしゃいました。
建築家探しは難題でしたが、OZONE家designからは古民家再生の実績があり、ご夫婦の事情と震災からの復興という状況にも一緒に向き合ってくれ、丁寧にゆっくり進めることが出来る建築家数名をご紹介することになりました。
その建築家の中で、君塚 健太郎氏は「30年のローンを組んで家を建てるという考え方ではなく30年かけて少しずつ完成させるという方法は豊かである」という思いをご夫婦に伝えました。ご夫婦はその言葉に共感を覚え依頼を決定されたそうです。
再建工事は1期、2期工事、そして屋根の葺き替え工事と10年余りの長期に渡り進められました。そして最後に「スミツグイエ」(建築資料研究社)と題した君塚 健太郎氏の東日本大震災からの古民家復興を描いた本が出版されました。
ご夫婦には、将来「小さな食堂」をつくるという目標があります。お客様が集う食堂を囲んで、バーカウンターのあるキッチンには奥様、一段上がった書斎・居間のL型のワークデスクにはご主人のスペースがあります。書斎・居間というセミプライベートな空間と、食堂というパブリックな空間の間に交流が生まれるというコンセプトです。
元座敷だった部屋の天井を取り払うと、小屋組みにこの住宅の改修の歴史が現れました。色の違いから、古い時代の梁の上にはその後、和小屋が載せられたことも分かりました。
君塚氏は、これまでの履歴を次世代へと伝えていくために、敢えて構造材に色を乗せず時代が識別できるようにしました。
開放的な場所である縁側には、障子の桟の割付けと合わせたデザインの面格子壁を採用。
神棚の間は、小さな食堂を開設した際には食堂とプライベートの間のニュートラルな空間と位置付けられる想定です。
「小さな食堂」のテーブル席を縁側まで広げることも可能。将来的に外部にウッドデッキを造る計画もあります。
将来、小さな食堂を開設した際には家族の居間となります。
クライアントとの出会いは、いつも奇跡に近いもので、その運命に感謝しきりです。そして、このプロジェクトにまつわる奇跡は、私がたまたまOZONE家designに登録した矢先に始まりました。
住まいは買うものではなく建てるもの、と言うは易し、実行するのは難しいことです。このプロジェクトでは、段階的に進められた計画によって、本当に必要なものは何なのか、住まい手自身が、考えながら作り、作りながら考えるというプロセスを、より深いレベルで試みることが出来ました。そして、その決して効率的とは言えないプロセスゆえに、住まい手の価値感やライフスタイルと本当に調和する住まいづくりが続けられてきたように思います。
2012年にはじまり、2020年に彼らの新たな生活がスタートしたとき、1期工事で行った外装はすでに経年変化をおび、すっかり周辺に馴染んでいました。
今後も変化と適応を繰り返し、次世代へと住み継がれていくことを願っています。